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2018.7.9 創立記念の集い

教育目標 ~人間の尊厳を大切にする~

大東学園の教育目標「人間の尊厳を大切にする」は、大東学園が「人間の尊厳を大切にする」教育活動をすすめていくのと同時に、生徒のみなさんも一人一人が「人間の尊厳を大切にする」存在として成長・発達していくことを目標としています。カリキュラムにおいても3年生では「人権」を総合科目とし、そのための最高の条件整備である「平和」を2年生の総合科目として位置づけています。また1年生では総合「性と生」で性を現代的な人権の問題として考えます。そして「福祉」コースでは、福祉を「誰もが共に幸せに生きること」とひろく捉え、体験を大切にした学びを展開しています。また「生徒が主人公」という考えのもと、学校生活の中心である授業も生徒と教職員が協同してつくるものと考え、より良い授業づくりを推進するため、生徒・保護者・教職員の協同の取り組み「三者協議会」の最重要課題としてきました。

大東学園創立の歴史  ~創設者 守屋 東(あずま)

大東学園の教育目標「人間の尊厳を大切にする」はどのような歴史から生まれてきたのでしょうか。大東学園は今から86年前、守屋 東(あずま)先生により創立されました。東が社会活動家・教育者として活動した時期は明治の終わりから昭和にかけてです。どのような時代だったか、振り返ってみましょう。それはまさに日本の戦争の時代でした。後で述べますが、東が代用教員として尋常小学校で働き始めた19歳の時、1902年、日本は日清戦争を終え、日露戦争を目前にした時期です。そしてさまざまな活動を経て大東高等女学校を創立したのがアジア太平洋戦争開戦の翌年1942年です。戦争の時代、「富国強兵」の国策・風潮の中では「お国のためにお役にたてるか」が最優先される価値基準となり、真っ先に犠牲になっていくのは社会的弱者である「こども」「女性」「障がいのある人」たちでした。そのような時代背景…社会的弱者は差別・排除の対象となり、人権など考えすら及ばない時代…その中で、東は当時としては非常に先進的な人権意識を持って「こども」「女性」「障がいのある人」の人権擁護(ようご)の運動と教育づくりに取り組み、現在の大東学園高等学校の礎(いしずえ)を築いたのです。

下谷(したや)の万年尋常小学校で代用教員となる

東は1883年(明治17年)東京都麹町で旧福岡藩士の医師の父の元、比較的裕福な家庭に生まれました。当時としては大変に高学歴で高等女学校を卒業後、仏英和女学院(現在の白百合学園の前身)でフランス語を学び、東京音楽学校別科(現在の東京芸術大学の前身)でバイオリンを習っていました。若くして亡くした妹の影響で熱心なクリスチャンでもありました。

東の豊かな生活が一変したのは19歳の時、実は家計が大変困窮していることを知った東は下谷万年尋常小学校で代用教員として働くようになります。先ほども述べましたように日清戦争を終え、日露戦争を目前にした時期です。戦費調達のため生活必需品にも高率の税が課され、人々の生活に大きく影を落としていました。とくに都市部の中下層民は生活難におちいっていました。東の接する下町の子どもたちも極度な貧困や恵まれない家庭事情で「この学校で、今まで自分の想像もしなかった人間の生活がある事を知った。ここに自分が学ぶ多くのことがある。」と、ここでの経験がその後の東の社会活動の基盤となっていきました。

 

女性たちの保護と世界平和を求める運動

膨大な戦費を費やした日露戦争により国力が疲弊(ひへい)しきった1908年。24歳になった東は日本キリスト教婦人矯風(きょうふう)会の本部専従職員となり、貧困のために売春をせざるを得ない女性たちを保護、救済する活動に取り組みました。彼女たちを保護し、手に職をつけるための拠点として「慈愛(じあい)館」の経営を担当しました。この慈愛館は100年以上を経た現在も新宿に慈愛寮として、生活困難や暴力から保護の必要な妊産婦と乳幼児が利用する施設として存続しています。このことは当時のこの取り組みがいかに先進的であったかを今に伝えているのではないでしょうか。

第1次世界大戦は約900万人の戦死者と約2100万人の戦傷者を出しました。その反省から開かれたワシントン軍縮会議の際に、37歳になった東は日本キリスト教矯風会の仲間と渡米し、世界平和と軍備縮小を求める日本婦人1万名の署名をアメリカのハーディング大統領に手渡しました。この活動は日本キリスト教矯風会の方針に基づくものでありますが、「平和」こそ社会的弱者の人権擁護のための最高の条件整備であると考えると、後の東の活動と真っすぐにつながっていきます。

 

肢体(したい)不自由児のための学校 ~クリュッペルハイム東星学園~

満州事変の翌年、1932年(昭和7年)、東48歳。日本の戦争の時代の最暗部である15年戦争の真っただ中となります。障がい者に対する差別・抑圧がますます激しくなる時代背景の中、ドイツで始まっていたクリュッペルハイム(肢体不自由児のための学校)の経験に学び世田谷区の上野毛で「クリュッペルハイム東星学園」設立準備に取り掛かり、同時に学校看護師や養護教員の養成所も創設しました。こうして肢体不自由児の教育を開始しました。この取り組みが戦後1949年に制定される身体障害者福祉法の基礎となりました。また同年、田園調布に桜幼稚園を開園します。(1943年に閉園となるが戦争中は保育所と形を変え、のちに財団法人なかよし幼児園となり1975年に公立保育園に吸収されるまで幼児教育を行いました。)

 

大東高等女学校から大東学園高等学校へ

そして1942年には大東高等女学校を創立しました。アジア太平洋戦争の開戦直後でもあり、英語は敵性語としてほとんどの学校教育の中から排除されている時代でしたが、大東高女では「遠からず英語が必要な世の中がくる」との考えから英語教育が行われていました。「禁断の聖書と英語の本持ちて壕(ごう)に入れば爆音迫る」「警報下ロウソクともし書き綴る英単語ゆれるPEACE」…当時の生徒の短歌です。空襲の激化に伴い1944年にクリュッペルハイム東星学園の事業を停止せざるを得なくなりましたが、この大東高等女学校が戦後の学制改革により大東学園高等学校となりました。

後に東は「万年町の4年間は、私の一生の土台を築いた人生の教室であり、私の小さな社会改良の夢の実験台であった。」と述べています。単なる社会活動や教育のスケールを超え、理想の社会づくりを目指したダイナミックな思想と行動力を併せ持つ女性であったことがこの言葉からもうかがわれます。

 ~人間の尊厳を大切にする~

私立学校にとって建学の精神は存在理由であり教育の核心です。創設者守屋東氏の遺志は現在の大東学園にも連綿(れんめん)と引き継がれています。始めに述べましたように、東の教育づくり・学校づくりの思い、目指した理想の社会づくりの遺志は大東学園の教育目標「人間の尊厳を大切にする」の中に生き続けているのです。

2018.7.9 10:54 on 校長通信

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