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大東生になったら「あなたの中の学校がかわります」

2019.7.8 ~創立記念の集い~

~教育目標「人間の尊厳を大切にする」~     2019年7月8日 創立記念の集い
 大東学園の教育目標「人間の尊厳を大切にする」は、大東学園が「人間の尊厳を大切にする」学校であるとともに、生徒の皆さんも「人間の尊厳を大切にする」存在として成長していってほしいという願いが込められたものです。今回はより深く、大東学園の創立の歴史と現在の教育づくりから考えてみましょう。

~大東学園の創立の歴史~
 大東学園は今から87年前、守屋 東(あずま) 先生により創立されました。東が社会活動家・教育者として活動した時期、明治の終わりから昭和にかけてはどのような時代だったのでしょうか。それはまさに日本の戦争の時代でした。東が代用教員として尋常小学校で働き始めたのは日清戦争を終え、日露戦争を目前にした1902年、そしてさまざまな活動を経て大東高等女学校を創立したのがアジア太平洋戦争開戦の翌年1942年です。戦争の時代、「富国強兵」の国策・風潮の中では「お国のためにお役にたてるか」が最優先される価値基準となり、真っ先に犠牲になっていくのは社会的弱者である「こども」「女性」「障がいのある人」たちでした。そのような時代背景…社会的弱者は差別・排除の対象となり、人権など考えすら及ばない時代…その中で、東は当時としては非常に先進的な人権意識を持って「こども」「女性」「障がいのある人」の人権擁護(ようご)の運動と教育づくりに取り組み、現在の大東学園高等学校の礎(いしずえ)を築いたのです。

 ~大東学園の総合科目~
 大東学園では総合科目として1年生では「性と生」3年生の「人権」や、その最高の条件整備である「平和」を2年生の総合科目として位置付けているのです。
 1年生の総合科目「性と生」では性を科学的に学び、命や心とつながるものとして学びます。「性」のことは自分の尊厳も人の尊厳も大変傷つけやすいことです。ですから大東学園では1年生で科学的に正確に、そして人権を切り口として学びます。
2年生の総合科目「平和」では今から74年前の沖縄戦と、そこから続く現代の基地問題から「平和」を学びます。「自分は戦争のない時代に生まれてよかった」とか「基地の問題は沖縄のことでしょ」というのではなく、時間や空間を超えて想像力を働かせ、「平和」の学びを「他人事」ではなく「自分事」とする学びです。
 3年生の「人権」は1・2年生での学びをもとにより広く、深く「人権」について探求する学びです。これらは創立の歴史から見ても大東学園の教育の「柱」であり、教育目標の「人間の尊厳を大切にする」につながっているのです。

 ~「生徒が主人公」の学校を目指して「三者協議会」~
大東学園は「生徒が主人公」の学校です…とも言っています。学校ですから生徒が主人公なのは当然です。しかし言葉で言うのは簡単ですが実際に実現するのは難しいことです。大東学園では、それを実現させる仕組みとして「三者協議会」があります。三者協議会では生徒・保護者・教職員が対等な立場で授業のこと、学園生活の規定のこと、学校の施設や設備のことなど、様々な問題について話し合い、学校づくりをすすめています。生徒・保護者・先生たち、それぞれの立場で違う意見がでます。そこに地域の方々や、その他の参加者の意見…みんなが違う意見を出し合います。話し合いの中で立場の違う「お互い」の理解を深めたり、知り合ってお互いを尊重する関係をつくる。そして、自分の考えを深めたり、自分の考えが変わったり、他者に考えにゆずったり…自分も他者も大切にする関係ができてきます。自分も他者も大切にする世の中に…「人間の尊厳を大切にする」ことにつながっているわけです。

 ~大東学園がここ希望丘に移転したころ…38年前のこと~
 大東学園が創立の地である世田谷区上野毛から、ここ「希望が丘」の地に移転してきたのは1981年のことでした。「希望が丘」といっても住所に「希望が丘」という名称があるわけではありません。大東学園の住所は世田谷区船橋7丁目です。それでもこの地域には「希望丘公園」に「希望丘団地」「希望丘通り」に「希望丘小学校」、「船橋希望中学校」も「船橋中学校」と「希望丘中学校」が統合された学校です。「希望が丘」と名のつく公園や学校・施設は船橋地区、千歳台地区・八幡山地区と3つの地区にまたがって点在しています。「希望丘」というネーミングはどこからきたのでしょうか?
 1960年代のはじめ頃、船橋と千歳台、八幡山のこのあたりは烏山川という川が流れ、細かな田畑と林が入り組んだ地域でした。新たに「環状8号線」が通るのを機会に区画整理事業(入り組んだ土地や田畑を整理し、学校や公園、公共施設などを整える事業)が計画されて、三つの地域にまたがることから新たに「希望が丘土地区画整理事業」(1965~1982)と名付けられたそうです。「希望丘」という名前はそこに由来しているわけです。

 ~大東学園の敷地の下には“縄文遺跡”~
 大東学園が新天地として、ここ希望丘に学校用地を確保したのは1980年のことでした。環状8号線に沿い、京王線の八幡山駅と小田急線の千歳船橋駅から徒歩圏内の場所でした。校舎建設が始まると一つやっかいな問題が持ち上がりました。「文化財発掘」という問題です。そもそも希望丘の地域は縄文時代の住居跡などが多く見つかる地域で“廻沢(めぐりさわ)北遺跡”と名付けられ世田谷区が発掘調査を進めている地域でした。昔から川が流れ(水の確保に困らない)日当たりがよく(暮らしやすい)高台で(洪水の被害がない)人々の暮らしやすい場所だったことがうかがわれます。造成中の地面から出土したのはマイクロブレードと呼ばれる黒曜石から作られた石器や多くの土器です。柄(え)鏡(かがみ)型住居跡(あと)など縄文時代の人々の生活のあとも発見されました。発掘調査のために新校舎の完成は2か月ほど遅れたそうですが、休日には生徒たちと先生たちで発掘のお手伝いをしたり、そこから「考古学クラブ」が誕生したりしたそうです。今、みなさんが毎日学んでいるその教室にところで、3000年から4000年前には縄文の人々が暮らしていたんですね。想像が広がりますね。

2019.7.8 13:09 on 校長通信

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